人間として生まれてきた意味は何か?
私は何を達成する為に生きているのか?
こんな基本的な質問に、日本社会ははっきりと答えることが出来ません。
作家が手探りで自分の意見を本に書いたり、
宗教やスピリチュアルを生業としている人達でさえ、
瞑想の方法や、欲しいものを楽して手に入れる方法は教えられても、
それって全部、結局何の為なの?と質問しても、
せいぜい、天国に行く為、とか、毎日楽しく暮らす為、ぐらいしか答えられない人しかいません。
日本には、「人生の目的とは何か」という根本的な質問に、
きっぱりと答えらる文化が無いのです。もしくはその文化が残っていないのです。
人生の目的とは?
という人間が生きていく上で必要であるべき主題が欠落したまま。
ただただフル回転で生産して消費しよ!というのはよく考えると異常です。
ドロップアウトして、ニートや引きこもりになるのも当然といえば当然です。
ヴェーダの文化はそこのあたりが完全にはっきりしています。
人生の目的とは、ずばり「幸せになること」です。
簡単すぎました?
でも、ここでずっこけたということは、今までの人生の中で
「人生の目的とは幸せになること」と明確に宣言したことがないからです。
「自分は幸せになるために生まれてきたのだ!」
「自分の幸せに貢献しないことは絶対したくない!」
「自分は~が~になれば幸せなのだ!」
とはっきり何の後ろめたさもなく言い切る為には、
「幸せとは」についてしっかり考えながら生き、考え抜かなければなりません。
私はインドに来てヴェーダーンタに出会うまでは
「私は幸せになりたい!」と思うことは自分勝手で良くない事だと思っていました。
自分の幸せは周りの迷惑の上に成り立っているというイメージがあったからです。
しかし、本当にそうでしょうか?
周りが幸せでなくて、自分が本当に幸せになれるでしょうか?
同時に、自分が幸せじゃないのに、周りを幸せに出来るでしょうか?
インドには「人間の幸せ」という主題について真剣に考える伝統があります。
私はインドに来てヴェーダーンタに出会うまでは
「私は幸せになりたい!」と思うことは自分勝手で良くない事だと思っていました。
自分の幸せは周りの迷惑の上に成り立っているというイメージがあったからです。
しかし、本当にそうでしょうか?
周りが幸せでなくて、自分が本当に幸せになれるでしょうか?
同時に、自分が幸せじゃないのに、周りを幸せに出来るでしょうか?
インドには「人間の幸せ」という主題について真剣に考える伝統があります。
「人生の目的」のことを、ヴェーダの文化では「プルシャ・アルタ」と言います。
「プルシャ」は「人間」で、「アルタ」は「望まれるもの」です。
人間という身体を持って生まれた生物、つまり自由意志を与えられた生物によって、
望まれる対象のことです。
プルシャアルタは4つあります。
1.ダルマ(アヒムサーなどの道徳的価値)
2.アルタ(安定。衣食住、家族、経済、名声などの安心材料)
3.カーマ(快楽。心と身体を喜ばせるもの全て)
4.モークシャ(あらゆる不幸の理由からの自由。完全な幸せ)
あらゆる人間のあらゆる欲望も願望も、全てこの4つのカテゴリーのどれかに収まります。
全てのプルシャ・アルタは、まずダルマがあってこそなので、
ダルマが最初に来るような順番で紹介されます。
ダルマを守って、ダルマの範囲内でアルタとカーマを追求する。
ダルマな人生を送ってきた人にのみ、モークシャの可能性がある。
実は、全ての人間が欲しいものは、モークシャなのです。
モークシャ以外の幸せは、どんな形であれ全て制限つきの幸せです。
誰でも、無条件に幸せでありたいと願っている。あらゆる制限から解放されたいと願っている。
しかし、「制限なしの幸せ」なんて想像すら出来ないのが人間の脳みそという物です。
ヴェーダの文化圏外にいたら、そんな制限なしの幸せの可能性すら知らずに一生が過ぎます。
ゆえに、条件の中で「~が~になったら幸せ」と手を打っているのが全人類の傾向なのです。
では、そのモークシャとは何ぞや?
モークシャが何かをきっちり分かるのがモークシャです。
そのモークシャという知識を教えるのがヴェーダーンタです。
制限も条件も無い幸せなら、時間にも場所にも制限されてないわけですから、
その幸せは今ここにある、自分自身であるはずです。
「自分自身が幸せの本質である」というのが真実なのに、
その真実を知らずに「自分自身は制限だらけの惨めな存在である」というふうに
自分自身のことを知っている人には、無知と混乱があります。
無知を治すのは、知識です。経験ではありません。
特に瞑想による経験や、いわゆるスピリチュアルといわれる経験ではありません。
幸せを経験することがゴールと思っていること自体が混乱なのです。
ヨガや瞑想、そして食生活を含めたライフスタイルは、
モークシャへの準備の「手段」であって、「目的」そのものではありません。
大切でかけがえの無い手段ですが、その先に目的があることをお忘れなく!
ダルマに生きて、モークシャが何かをはっきり知るために、
ヴェーダーンタの教えを聞く準備が出来たとき、
ヴェーダーンタに触れる機会が自動的に訪れるのです。
ダルマが最初に来るような順番で紹介されます。
ダルマを守って、ダルマの範囲内でアルタとカーマを追求する。
ダルマな人生を送ってきた人にのみ、モークシャの可能性がある。
人間の幸せとは
実は、全ての人間が欲しいものは、モークシャなのです。
モークシャ以外の幸せは、どんな形であれ全て制限つきの幸せです。
誰でも、無条件に幸せでありたいと願っている。あらゆる制限から解放されたいと願っている。
しかし、「制限なしの幸せ」なんて想像すら出来ないのが人間の脳みそという物です。
ヴェーダの文化圏外にいたら、そんな制限なしの幸せの可能性すら知らずに一生が過ぎます。
ゆえに、条件の中で「~が~になったら幸せ」と手を打っているのが全人類の傾向なのです。
では、そのモークシャとは何ぞや?
モークシャが何かをきっちり分かるのがモークシャです。
そのモークシャという知識を教えるのがヴェーダーンタです。
制限も条件も無い幸せなら、時間にも場所にも制限されてないわけですから、
その幸せは今ここにある、自分自身であるはずです。
「自分自身が幸せの本質である」というのが真実なのに、
その真実を知らずに「自分自身は制限だらけの惨めな存在である」というふうに
自分自身のことを知っている人には、無知と混乱があります。
無知を治すのは、知識です。経験ではありません。
特に瞑想による経験や、いわゆるスピリチュアルといわれる経験ではありません。
幸せを経験することがゴールと思っていること自体が混乱なのです。
ヨガや瞑想、そして食生活を含めたライフスタイルは、
モークシャへの準備の「手段」であって、「目的」そのものではありません。
大切でかけがえの無い手段ですが、その先に目的があることをお忘れなく!
ダルマに生きて、モークシャが何かをはっきり知るために、
ヴェーダーンタの教えを聞く準備が出来たとき、
ヴェーダーンタに触れる機会が自動的に訪れるのです。