2015年2月3日火曜日

[15] 2.アドリシュタ・パラ(見えない結果)

「ドリシュタ」に否定の接頭辞「ア」をつけると「目によって観察できないもの」という意味の「アドリシュタ」という言葉になります。

アドリシュタ・パラは、ある行為の結果として、ドリシュタ・パラとは別にある、目に見えない部分の結果です。

何かしらの行動を取った際、ドリシュタ・パラと共に、アドリシュタ・パラも発生し、見えない形で自分の名の下にポイントの様に蓄積され、「運」という要因として、将来の自分の行動の結果に影響を与える、というものです。

目に見えないので、アドリシュタ・パラが「有る」と科学的に証明することは出来ません。科学とは、感覚器官を通して集められたデータを元に成り立っているからです。そして同時に、同じ理由から「無い」とも証明出来ないのがアドリシュタ・パラです。

科学的に因果関係を証明出来る結果はドリシュタ・パラと呼ばれるべきであり、そうでない結果がアドリシュタ・パラと呼ばれているのです。

「じゃあ、アドリシュタ・パラの存在は信じるしか無いのか?」というと、そうでもありません。ここからが大事です。アドリシュタ・パラとは、信じるか信じないかの対象はなく、理解し認識する対象であるということです。この点が、この宇宙の在り方、自分の在り方についての理解についての重要点になります。

結論から言うと、大事なことは、「この大宇宙の複雑で巨大な因果関係のネットワークの中で、人間が知り得る部分はほんの一部であり、知り得ない部分は多大にある」と認めることです。「人間に分からないことは沢山ある。自分の身の上に起こる結果にも、自分には知り得ない要因が沢山絡んでいる」という認識は客観的であり、現実的です。これを認めないのは主観的であり非現実的です。

ドリシュタ・パラもアドリシュタ・パラも両方、原因と結果を結ぶロジックは同じなのです。そこには数え切れない程もある複雑な要因が、物理の法則、生理の法則、心理の法則などの秩序に整然と従い、結果を生み出しています。この面ではドリシュタ・パラもアドリシュタ・パラも変わりません。ドリシュタ・パラとアドリシュタ・パラの違いは、唯一つ。因果関係が私達に理解出来る範囲にあるか否かだけです。

この宇宙で起きること全ては、想像しきれないほど複雑に絡み合った因果関係のネットワークの中で、寸分の狂いも無い法則に沿って秩序正しく表われた結果なのです

文字通り天文学的に巨大なスケールの因果関係ネットワークは複雑すぎて、人間の知能はおろかスーパーコンピューターでさえも、正確に将来の可能性を算出することは出来ません。因果関係に関わる要因があまりにも多いからです。この宇宙そのものとして無限に広がる莫大な知識の現われの中で、私達人間が感知出来るのは、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚という五感の対象物のみです。量子物理学も天文学もニューロサイエンスも、全てはこれら五感を通して集めたデータを基に、推論と実験を重ねただけなのです。この大宇宙を、目鼻口といった小さな穴を通して見ているようなものです。そして、目鼻口の穴から見えない部分を「アドリシュタ(見えない)」と呼んでいるのです。これはとても客観的なものの見方です。

この部分を認識することによって、より客観的に世の中を把握することが出来ます。成長した心、豊かな心を持つ人とは、この見えない部分を、きちんと見えない部分として認識している人のことなのです。

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