2015年2月24日火曜日

ガーヤットリー・マントラとは

4つのヴェーダの全てを象徴し、

ヴェーダの伝統を受け継ぐ知識人達によって

代々何千年も受け継がれ、

毎朝夕の儀式の中で静かにチャンティングされ続けてきた

特別なマントラです。

ガーヤトリーとは


ガーヤトリー(गायत्री [gāyatrī])とは、韻律の一種です。

マントラやシュローカと呼ばれる祈祷などに使われる詩節で、

8個の音節が3つ、つまり8X3=24音節を含むものが、

「ガーヤットリー」と呼ばれます。

マントラとは


マントラとは、ヴェーダと呼ばれる聖典を構成している文章を指します。

マントラの内容は基本的に、人間が幸せを実現するための知識を教えています。

マントラはインドの土地で代々口伝で受け継がれてきました。

ヴェーダのマントラには抑揚があり、発音がとても大事です。

発音による周波数の集合が広がって結果を生むからです。

それゆえに、ヴェーダのマントラは、

ヴェーダの教える生活規範に沿った生き方を24時間している先生が、

同じようにヴェーダの教える生活規範に沿った生き方を24時間している生徒へと、

何年もかけて口伝で教えることになっているのです。


反対に、発音を間違えると不本意な結果を招きます。

ゆえに、不用意に日本人が気軽にマントラを口にするのはとても危険なので、

避けるべきでしょう。


ガーヤットリー・マントラとは


8つの音節を3つ含むマントラが、ガーヤトリー・マントラです。

ガーヤットリーと呼ばれるマントラには、

サヴィター(原型サヴィトル、savitr)、ルッドラ、ドゥルガといろいろあります。

どれも、父親または先生からウパデーシャとして教えてもらわなければなりません。

特にsavitrのガーヤトリーは、ウパナヤナという儀式を受けて、

毎日ジャパをするという義務を発生させてから独りでジャパするためにあります。

ウパナヤナの儀式を受けるのは、特定の家系に生まれた男子のみです。

10歳前後で儀式を受け、ガーヤットリー・ジャパを毎日一生続けるのです。

savitrのガーヤトリーはヴェーダのマントラであり、上記のように特に神聖なので、

いつでもどこでも誰でもチャンティングしていいものではありません。

最近は、日本だけでなく、インドでさえも、

「皆でガヤトリを歌おう♪」という動きがありますが、

伝統的な価値観から見て、これはありえないことであり、

プージャ・スワミジを始め、伝統的な先生(アーチャーリヤ)達はそれを批判しています。

マントラは「触らぬ神に祟りなし」という姿勢で接するのがよいでしょう。

ガーヤットリー・マントラの代替


ガーヤットリー・マントラはとても強力です。

その意味も、私達皆が持つ、無知の影を焼き尽くし、

私達皆の知性を、明るい方へと導くようにと太陽に祈るものです。


このガーヤットリー・マントラと同じ内容で同じ結果が得られるシュローカがあります。

マントラと違って、誰でも唱えることができ、また皆で一緒に合唱しても差し支えありません。

そのシュローカと意味は、また今度、時間を見つけて書きたいと思います。

興味があればお尋ね下さい。





リシケシのアシュラムから拝む朝日

>> ガーヤットリー・マントラの代替としてのシュローカと詳しい意味 >>

>> サンスクリットの文献、歌う?詠唱する?チャンティングする?読む?その違いは?>>

>> トップ目次へ >>

2015年2月22日日曜日

現在執筆中「ヨーガというライフスタイル」

本当に自分を幸せにしてくれる生き方とは?
それが「ヨーガ」というライフスタイルです。

ヨガやスピリチュアルという名の下に、
間違った解釈や、根も葉もない無責任な情報が多大に氾濫しているのに見兼ねて、
「本当のヨーガ」というブレない生き方の指標を知ってもらう必要を感じています。

伝統と文献に正確に基づいた悠久の智慧を、
日本語で初めて書籍化すべく、執筆を始めました。

ご意見、ご希望があれば反映させていただきます。
出版社をご存知の方は、是非ご連絡下さい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

はじめに

ヨーガとは、人間の本来の目的を達成するライフスタイルのことです。
ライフスタイルというからにはつまり、朝起きてから寝るまでの時間の過ごし方です。
それを一日のスケジュールとしてまとめてみました。

社会人でも、主婦でも、OLでも、引退後でも、誰でも、どこでも、
自分の生活圏内で、 ヨーガというライフスタイルを実践出来るのですよ。

=目次=

ヨーガとは
一日のスケジュール

 朝一番の祈り
 お風呂
 アーサナ、プラーナーヤマ
 洗い立ての清潔な服を身に着ける
 祈り
 ジャパ、瞑想
食事
 
日中
 4つの人生のステージごとに与えられた義務
  1.学生
  2.家庭人、社会人
  3.引退した人
  4.サンニャーシー・サドゥー
  5.ニート・引きこもりは?
 全てのステージに共通
  ヤッニャ(祈り、義務、チャンティング、座学など)
  ダーナ(貢献。周りの人や動植物が必要としている時間と思いやりを与えること)
  タパス(モウナム、ファスティングなど)
夕方
 お風呂
 祈り
 チャンティングなど
決まった曜日・時間等に
 チャンティング(別本ワークブック参照)
 座学(別本ワークブック参照)
 サットサンガ
 モウナム
 ファスティング


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ヨガのクラスの後などに、皆で輪になって座りながら勉強出来る、
簡単なチャンティングとその意味や、
自分の考えを整理整頓するための座学の教材を、
ワークブックとして別に作成中です。


私の住居している場所に生息する、青い蓮。



2015年2月3日火曜日

[16] ヴェーダの役割

ヴェーダはマントラと呼ばれる文章から構成されます。文章は言葉から構成されます。言葉の一つ一つには意味があり、言葉が集まって文章として意味を成します。文章はその受け取り手に新しい知識をもたらします。ゆえにヴェーダは、言葉からなる知識の集合体なのです。サンスクリットの用語では「シャブダ(言葉という形の)プラマーナ(知る手段)」と言います。この定義はヴェーダの役割を知る上でとても大切です。

サンスクリット文法的にもヴェーダという言葉の語源は、「知る」という意味の動詞の原型「ヴィド」に「~する手段、道具」という意味の接尾語からなると説明出来ます。したがって「ヴェーダ」とは「それによって知ることが出来るもの」、つまり「知識を得る手段」という意味として理解されます。

ヴェーダが知る手段ということは分かりましたが、何について知る手段なのでしょうか。ヴェーダの扱う主題は「人間の幸福」です。人類の幸福の追求に貢献するのがヴェーダの役割です。

また、ヴェーダが教える知識は、私達の経験を通して得られる知識ではありません。それゆえに、ヴェーダは「知識を得る手段」として、五感やそれを基にした推論とは別に独立して数えられるのです。

ヴェーダは2つの部に分けて説明することが出来ます。

1.カルマ(行為)の部

ヴェーダのほぼ全体を占めるカルマの部では「このような行為をすれば、このような結果が生まれる」という知識が教えられています。人間が幸福を追求する為に、するべきこと、避けるべきことが教えられているのです。

カルマの部で教えられている知識は膨大です。尽きない人間の欲望を反映して、あらゆる人間のあらゆる願望を実現するための方法を教えているからです。これらのカルマが、本人の望むものに応じてするかしないかを選べるのに対して、その人の義務として教えられているカルマもあります。

義務としてのカルマは、人生の段階に応じて、その人が従うべき生活規範として教えられています。「学生期には、定められた生活様式を守りながら定められたヴェーダの勉強をしなさい」「学生期が終われば、先生にお礼を捧げてからすぐに結婚し、定められた生活儀式を守り、家族と社会に貢献をしながら成長しなさい」「子供を結婚させたら家を出て、瞑想と儀式をしなさい」「準備が出来たら全てを捨てて、ウパニシャッドの理解に専念しなさい」というように、その人が一生を通じての行動が義務付けられています。義務を遂行すること、つまり自分の好き勝手な面を犠牲にして、家族や社会に対して与える側に立つ機会を通して、その人の心は成長し、本当の意味で豊かになります。

さらに、ヴェーダが教える儀式や祈りの全ては、この宇宙の全ての場所と時間に共通する秩序、すなわち物理や生理といった法則が、自分と言う個人のどの面をとっても共通する秩序なのだ、と理解するためにあるのです。

自分は他から切り離された小さな個人という存在であり、それゆえに自分以外のものを欲したり、自分以外のものから恐怖を感じたりします。そして、欲求や不安に対処するために奔走しながら、一生という時間があっという間に過ぎるのです。これは、どんなに富と権力を持っている人でも、どんなに貧しい人でも、地球上に存在し行動する個人の全てに共通して言えることです。

人間の根本的な問題は、「私は、私以外の全てのものとは違う存在だ」という自己認識です。ヴェーダのカルマの部は、この個人の自己認識に変化を与えるのです。

ヴェーダの教える価値感や生活規範に基づいた人生は個人に、「私という個人性は全宇宙の現われに他ならず、私の中にも外にも、共通の秩序と言う寸分の狂いも無い確実な法則が偏在している」ということに気付かせてくれるのです。


2.ニャーナ(知識)の部

一方、ヴェーダの終わりにある「ウパニシャッド」または「ヴェーダーンタ」と呼ばれるごく小さな部分では、個人と全体の本質についての知識が教えられています。



[15] 2.アドリシュタ・パラ(見えない結果)

「ドリシュタ」に否定の接頭辞「ア」をつけると「目によって観察できないもの」という意味の「アドリシュタ」という言葉になります。

アドリシュタ・パラは、ある行為の結果として、ドリシュタ・パラとは別にある、目に見えない部分の結果です。

何かしらの行動を取った際、ドリシュタ・パラと共に、アドリシュタ・パラも発生し、見えない形で自分の名の下にポイントの様に蓄積され、「運」という要因として、将来の自分の行動の結果に影響を与える、というものです。

目に見えないので、アドリシュタ・パラが「有る」と科学的に証明することは出来ません。科学とは、感覚器官を通して集められたデータを元に成り立っているからです。そして同時に、同じ理由から「無い」とも証明出来ないのがアドリシュタ・パラです。

科学的に因果関係を証明出来る結果はドリシュタ・パラと呼ばれるべきであり、そうでない結果がアドリシュタ・パラと呼ばれているのです。

「じゃあ、アドリシュタ・パラの存在は信じるしか無いのか?」というと、そうでもありません。ここからが大事です。アドリシュタ・パラとは、信じるか信じないかの対象はなく、理解し認識する対象であるということです。この点が、この宇宙の在り方、自分の在り方についての理解についての重要点になります。

結論から言うと、大事なことは、「この大宇宙の複雑で巨大な因果関係のネットワークの中で、人間が知り得る部分はほんの一部であり、知り得ない部分は多大にある」と認めることです。「人間に分からないことは沢山ある。自分の身の上に起こる結果にも、自分には知り得ない要因が沢山絡んでいる」という認識は客観的であり、現実的です。これを認めないのは主観的であり非現実的です。

ドリシュタ・パラもアドリシュタ・パラも両方、原因と結果を結ぶロジックは同じなのです。そこには数え切れない程もある複雑な要因が、物理の法則、生理の法則、心理の法則などの秩序に整然と従い、結果を生み出しています。この面ではドリシュタ・パラもアドリシュタ・パラも変わりません。ドリシュタ・パラとアドリシュタ・パラの違いは、唯一つ。因果関係が私達に理解出来る範囲にあるか否かだけです。

この宇宙で起きること全ては、想像しきれないほど複雑に絡み合った因果関係のネットワークの中で、寸分の狂いも無い法則に沿って秩序正しく表われた結果なのです

文字通り天文学的に巨大なスケールの因果関係ネットワークは複雑すぎて、人間の知能はおろかスーパーコンピューターでさえも、正確に将来の可能性を算出することは出来ません。因果関係に関わる要因があまりにも多いからです。この宇宙そのものとして無限に広がる莫大な知識の現われの中で、私達人間が感知出来るのは、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚という五感の対象物のみです。量子物理学も天文学もニューロサイエンスも、全てはこれら五感を通して集めたデータを基に、推論と実験を重ねただけなのです。この大宇宙を、目鼻口といった小さな穴を通して見ているようなものです。そして、目鼻口の穴から見えない部分を「アドリシュタ(見えない)」と呼んでいるのです。これはとても客観的なものの見方です。

この部分を認識することによって、より客観的に世の中を把握することが出来ます。成長した心、豊かな心を持つ人とは、この見えない部分を、きちんと見えない部分として認識している人のことなのです。

>> 次のページ [16] ヴェーダの役割 >>

<< 前のページ [14] 1.ドリシュタ・パラ(見える結果)<<

目次に戻る





2015年2月2日月曜日

蚊も殺さない人になろう 誰でも出来る実践アヒムサー

ヴェーダーンタを勉強する人は、蚊も殺したらいけないのよ。

と初めて聞かされた時は、ひぇ~私には到底無理!と思ったものですが、

やってみると意外と簡単です。

もちろん生きていくうえで、故意・不故意に、必要・不必要に

周り迷惑をかけながら生き物は生きていけるのです。

その中で、自分が生きる為にかける迷惑を最小にしたい。

自分が生きていることで成される貢献を最大にしたい。

と考えながら生きるためにも、

「蚊も殺さない」と心に留めながら生活をすることは役に立ちます。

ヴィーガン・曼荼羅

この地球には70億人くらいが共に生きていますが、

全員が健康に仲良く暮らしていけるだけの十分な土地と食料が地球にはあります。

(皆がヴェジタリアンなら、倍の人口になっても大丈夫らしいです。)

母なる大地が私達全員を養ってくれているのにも関わらず、

人間というものは、「他を殺さなければ自分達は幸せになれない」と確信し、

多くを殺したり、殺す人々を支援したりします。これが智慧の不在です。

その人の心にある恐怖や不安は、

その人が傷つけたり、直接的・間接的に他の生物を殺している数に比例しています。

そんなことを観察しながら、あらゆる生き物を傷つけないように考えて生きることは、

自分の中の恐怖や不安、心の貧しさを減らし、

自己受容、満足、幸せ、平和を増やしてくれます。

豊かで成長した心にのみ智慧が宿るのです。




「蚊も殺さない」なんて聖者や仙人だけが出来るような事だと日本人の私は思ったものですが、

アヒムサーを第一の行動基準価値とするヒンドゥー教徒の多いインドでは、

そこなへんのおっちゃん、おばちゃん、子供達が普通に蚊も殺さずに生きています。

そんな彼らから教わった、蚊も殺さない方法をシェアしますね。


レベル1:

自己防衛は自然のレモングラス・オイル

ケミカルを嫌うインド人の蚊対策です。普通に効きます。しかもケミカルのものよりも安価。

蚊のみならず、昆虫一般に効くそうです。アロマ効果もあるそうです。


レベル2:

蚊取りリキッド・線香の、アヒムサーな使い方

締め切った部屋で蚊取りのリキッドや線香を使うと、蚊は死んでしまいます。

私達の健康にも悪そう。

昔バックパッカーをしてたときに、インド人のおじいちゃんに教えてもらった方法は、

1.まず、部屋を閉め切って、30分だけリキッドを使う。

2.その後、窓やドアを数分開け放って、蚊を逃がす。

3.そして、窓やドアを締め切って終了。

線香も同じように使うか、玄関先に置いておくだけで部屋に入ってきません。

蚊取り線香でなくても、普通のアガルパティ(良い匂いのお線香)で十分です。


レベル3:

キャッチ&リリース(捕まえて逃がす)

素手で捕まえるのはぜんぜん難しくないです。

バチッとする代わりに、速度を落として、フワっと捕まえます。

手に捕まえた感触があっても、意外と骨折もせずに生きています。フレキシブルなんかね。

透明のタッパを使えば、壁に留まっている蚊を簡単に捕まえられます。

タッパは蚊のみならず、あらゆる昆虫に使えて便利です。

リリースするときのポイントは、蚊が戻ってこないように、

部屋から数歩離れてリリースすることと、

だいたい自分の服に留まってまた戻ってくるので、ちょっとシャカシャカ踊ることです。


レベル4:

放って置く。部屋で飼う。

お互いお世話になりながら共存しているので、飼うという言い方はおかしいかもしれませんね。

いろいろやってきて、今これに辿り着きました。

面倒くさがりの私にはこれが一番。

蚊って全部が全部血を吸う訳では無い事に気が付きました。

4畳半ほどの私の寄宿部屋には、常に数匹のでっかい蚊が住んでいますが、

ほどんど誰も刺しません。

刺されても、面倒くさがりな私は、痒み止めを探し出すのも面倒くさくて、

とにかく10分ほど忙しくして、痒みを忘れておけば、痒みは止まります。


私の部屋には常に、蚊が数匹、蜘蛛さんたちも数匹、

ゲッコー(ヤモリくん)が2匹ほど、なぜかトイレの躾け済みで共存が簡単、

蟻さんの行列も、数ヶ月前から目の前にありますが、気にならないので放っています。

以前、赤い肉食蟻の大行列を何週間も甘やかしているうちに、

部屋に座ってられないくらいに大量発生した時は、さすがに出て行ってもらいましたが。

時々、蝶々や蛍が2、3泊ゆっくりして行かれることもあります。


蚊達は湿った場所が好きなようで、だいたいバスルームでお休みされています。

夜寝るときに電気を消すと、耳元にやってきますが、頭にショールを巻いて、

とにかく気にしないことにすれば、気になりません。

朝一番にまた、私のところに数匹の蚊がやってきて、ほっぺにキスしてきます。

刺すわけではないんです。なんなんでしょうかね。


でも、一日二日に一回は蚊に数箇所さされます。

その時は、お前か~?!と蚊を睨んでしまいますが、睨みつけるのもヒムサーですから、

私の未熟さを乗り越えなければなりませんね。

でも、睨むと、文字通り飛んで逃げて行きます。


虫を見たら、殺さないといけない!と思うのは、教育の結果で、

別にそんなことない、と気付けば、共に生きていく方がぜんぜん楽です。







[14] 1.ドリシュタ・パラ(見える結果)

「ドリシュタ」とは「目によって見られる」という意味です。目だけではなく、感覚器官の全てを通して直接確認出来るものを指しています。

行為とその結果の因果関係が目に見えてはっきりしている、そのような結果のことをドリシュタ(目に見える)・パラ(結果)と言います。

例えば、手を叩くという行為をすると、音が出る、というドリシュタ・パラという目に見える結果が生まれます。食べたらおなかがいっぱいになる、言葉を発してコミュニケーションがとれる、瞑想をして心が爽やかになる、などです。


自分のとった行為とドリシュタ・パラの因果関係に関する知識は、経験によって学習することが出来、また記録して伝えることにより蓄積することも出来ます。


[13] 2種類の行為の結果(パラ)

これまでに行為の種類(身体言葉)と、行為の決定基準(ダルマアダルマ)を見てきました。どよのうな行為であっても、行為というものは全て、必ず結果を生みます。

人間がとった行為によって生まれた結果には、2種類あるとヴェーダは教えています。

2.アドリシュタ・パラ(見えない結果)

「ドリシュ」とはサンスクリット語で「見る」という意味の動詞の原型なので「見える、見えない」とここでは直訳しました。どのような意味において「見える結果」「見えない結果」なのでしょうか。そして、なぜその2つで区切られているのでしょうか。ひとつづつ見ていきましょう。

>> 次のページ [14] 1.ドリシュタ・パラ(見える結果)>>

<< 前のページ [12] 2.アダルマ (ダルマとは別の行動)<<

[番外] 蚊も殺さない人になろう 誰でも出来る実践アヒムサー


目次へ戻る