2014年7月5日土曜日

客観的に正しく考える事を推奨し、考える人によってのみ理解可能なのがヒンドゥー教

盲目的な信仰心は思考を停止させてしまう


一般的に「宗教」というと、信仰心に頼った考えを指します。

世界中で広く信仰されている宗教はもちろん、どんな宗教でも大抵は、

「私達の神のみが神であり、他の神は神ではない」と教義として教えています。


「なんでそんな事が言えるのですか?」という疑問を持つのは、

考える生き物である人間として当たり前でしょう。


しかし、教えを広める人達に対して、そんな質問をしてしまったら、

「お前は信仰心の無い奴だ」と言われて、悪魔扱いされたり、村八分になったり、

暴力的な宗教では自分や家族が殺されたりしてしまいます。


だから、考えるのを止めて、飲み込んでしまうしかありません。

宗教以外に関しては、きちんと考えられる能力を持っている人でも、

宗教に関しては、局部麻酔にでもかけられたみたいに、

考えがストップしている人達が世界の大多数を占めています。

なぜかと言うと、宗教と言うものは往々にして、

考える事を止めて飲み込むしかないような教義を立てているからです。


人間の知性は使うために与えられている


人間は考える能力を与えられているがゆえに、人間と呼ばれるに値するのです。

考える事を禁止するような宗教や団体は、人間を非人間に陥れているようなものです。


私達人間の脳みそは、考えるために与えられているはずです。

私達が持っている、限られた一生の時間は、考える為に与えられているはずです。


正しく考えることを推奨する唯一の宗教、ヒンドゥー


ヒンドゥーの文化の根源である、聖典「ヴェーダ」の最終的な教えは、

客観的に正しく考える事の出来る人によってのみ、理解出来るようになっています。


最終的な教えに辿り着くまでの人生は、心の成熟を得る為にあります。

人間としての心の成熟とは、すなわち、感情に左右されずに、

常に客観的に正しく考えられる、という事です。


ヴェーダの教える生き方


聖典「ヴェーダ」は、最終の教えに至るまでの、

成長を得る為の人生の生き方を事細かに教えています。

この教えに沿った生き方が、人生の全ての側面において、

客観性と平穏を持った心を育ててくれるのです。

インドの「ヒンドゥー教」と呼ばれる生活のあり方は、

このヴェーダの教える生き方がベースとなっています。


ヒンドゥー教の聖典「ヴェーダ」


そしてそれをサポートする膨大な文献が教える儀式や生活様式、逸話などは、

「なんで?」「どうして?」と考えされられるようなものばかりです。

それらの文献は、私達に「なんで?」「どうして?」と考えさせているのです。

そして、それらの文献は、全ての疑問にきちんと答えを用意しています。

答えがどの程度理解出来るかは人それぞれなので、

それぞれの人の思考能力にあわせて、それぞれの答えを用意しています。


一見理解の困難な、儀式や決まり事の多い、極彩色の文化を有するヒンドゥー教ですが、

それらを通して常に、私達に対して客観的に正しく考える事を推奨しているのです。


でも、どんな人だって、どんな時でも、起きている時間は大抵考えています。

考えすぎなくらい、考えています。常に考えっぱなしです。

しかし、その考え方は、主観的で、間違っているのです。

それゆえに、人生と言うものは問題ばかりなのです。

人間の不幸と言うものは、突き詰めると結局、主観的で間違った考えに起因しているのです。


では、何が客観的な考えで、何が正しい考え方なのでしょうか?

人生とは、それらを知るためにあるのです。

客観的で正しい考えを身に着ける為の人生の生き方が、

ヴェーダやその他の聖典で教えられている生き方なのです。


なぜ?どうして?を推奨し、考えさせ、答を与えるのが、ヒンドゥー教


ヒンドゥーの文化で教えられている「神様」には、

様々なフォーム(形)があり、様々な逸話があります。

それらは全て「なぜ?」「これ何?」「どうして?」「どう理解すべき?」

と疑問を起こすものばかりです。

シヴァ神のフォーム(形)のひとつ、先生の形をしているダクシナームルティ。
火、月、イヤリング、、、一つ一つのフォームは意味があります。
これらを正しく理解するのには、伝統に沿った正しい教えと、客観的な考えが必要です。

それらの疑問には全て、文献によって答えが与えられています。

そして、それらの答え全ては、

「神様とは、この世界、自分も含めたこの宇宙全体であり、

この変わり行く宇宙に存在を与えている、限界の無い唯一の存在である。

そしてそれは意識的な存在、つまり私である。」

という、最後の答えに辿り着くように出来ています。


この答えを、本当の意味で理解するには、相当の客観性を要します。

この本当の意味を理解する事の、その意味を理解するだけでも、

相当の客観性を要します。



少し難しくなって来たかも知れません。

話を元の筋に戻しましょう。


盲目的信仰心の危険性


「私達の神のみが神であり、他の神は神ではない」といった教えは、

客観的な正しい理解を必要としません。

ただただ、盲目的に信じるしかありません。

理屈に合わない事を、盲目的に信じ込ませるという行為は、

考える能力を禁止し、否定する、非人間的な行為です。


考える能力を使って、客観的に正しく考えて見ましょう。

この世の全てを神とするなら、「他の神」と呼ぶ事すら出来無いはずです。

もしくは、「他の神」も全て神であるべきです。


「私達の神のみが神であり、他の神は神ではない」を飲み込むには、

神以外の存在を認めるしかありません。

客観的に正しく考えて見ましょう。

彼らの言う、神以外の存在とは、他の神とか、悪魔とか、ちっぽけなあなたとかです。

そんな、神以外の存在を許すような神様は、限界のある神様です。

なぜなら、他の神とか、悪魔とか、ちっぽけなあなたとかを含んでいないからです。

そんな限りのある神様を、「全知全能」と呼ぶ事ができるでしょうか。

そこな辺の権力を持った人間の、もっとすごいヴァージョンが神様なのでしょうか?

そんな限りのある神様に、自分の幸せを託すのは、賢い事でしょうか?


全知全能とは?


どんなにちっぽけでも、あなたの知識は知識です。

あなたの能力は能力です。

どんなにちっぽけでも、あなたの体の全ての器官は、知識の塊です。

細胞がどのように働くか、循環器が、消化器がどのように働くかを観察してみてください。

すべては知識の表れです。

あなたの心の中で起きる事も、全て脳細胞の働きであり、それは知識の表れです。


そんなあなたが、神様から離れた存在なら、神様は「全知全能」と呼ばれるに値しません。


全てを、客観的に正しく考え、正しく理解した時、

この宇宙の全てが「全知全能」なのです。

それを「神」と呼ぶなら、

「私達の神のみが神であり、他の神は神ではない」などと言ったり、

他の神とか、悪魔とか、ちっぽけなあなたとかを、神と別の存在として教えたりすることは

出来無いはずです。



スケールが大きすぎて、正しく考えられないかも知れません。

この、絶対的に最大のスケールでの理解に必要な、

客観性を培うための生活規範が、ヒンドゥーの生き方なのです。


ヒンドゥー教とは、鵜呑みにするための信仰ではありません。

人間として、正しく考えられる人を造り、

その正しい考えを使って、人間として生まれて来た意味を理解させるのです。


客観的に正しく考えられる人間を造る生き方を教えるのが、ヒンドゥー教であり、

さらに、人間として生まれて来た意味を教えるのが、ヒンドゥー教なのです。


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