2014年12月17日水曜日

人生の豊かさを決定する2人のレディース ラクシュミーとサラスワティ

ラクシュミー


豊かさの象徴といえば、インド中で一番人気の女神、ラクシュミー

財産も、成功も、勝利も、円満家庭も、子孫繁栄も、幸運も、全てラクシュミーの表れです。

一番人気、ラクシュミー

上に書いてある言葉は「श्री [śrī](シュリー)」といって、「富」という意味です。

ラクシュミーはいつも両手に蓮の花を持っています。

それゆえに、「पद्मिनी [padminī](パドミニー)」、もしくは

「पद्मवती [padmavatī](パドマヴァティー)」と呼ばれます。

パドマとは、蓮の花のことですね。

アーサナ(座)もパドマです。

普通は空いている左手で、前で富を祈る人に対してBlessingをしています。

右手からは金貨がザクザクと流れ出ています。

ラクシュミーを崇める人が、肖像の足に触れたり、

そこにサンダルペーストなどをつけてプージャーが出来るように、

どの肖像も大抵は右足が出ています。

インドでは、先生や両親に挨拶をするときに、足を触る習慣があります。

私にグレース(恩恵)をください、というゼスチャーです。

宇宙全ての富の総称を、ラクシュミーといいます。

黄金はラクシュミーのシンボルです。

お金、宝石、貴金属、土地、成功、名声、勝利、配偶者、家庭、子供、孫、

商売繁盛、そして幸運全般、全てはラクシュミーの表れです。

だから、お金も子供も、「私の努力で私がゲットした私のもの!」ではなく、

ラクシュミー女神自身として、大切に崇めるのです。

そんな姿勢でお金や家族に接することが出来たら、人生すばらしいですね。

とにかく、ラクシュミーあってこその人生なので、

ラクシュミーの祝福を得るために、皆こぞってラクシュミーを崇めます。

ここにラクシュミーありき。

ラージ・ラヴィ・ヴァルマの油絵のラクシュミーはとっても素敵。
ヒンドゥーの神々のピクチャーの検索をして思うのですが、

もっと沢山の種類の肖像画があれば喜ばしいことですね。

美大や芸術学校の課題にとても良い題材ではないでしょうか。

その時は、深いインスピレーションが湧くように、

私がヒンドゥーの神々についてレクチャーしに行きますから、お声を掛けて下さいね。

よろしくお願いします。



黄金色にキラキラ輝くラクシュミーの祝福は、人間なら誰でも追いかけます。

ラクシュミーが居なければ、仕事も趣味も勉強も、

家庭も政治も恋愛も、何も始まりませんからね。

そんな訳で、絶対的一番人気の座をほしいままにしている女神ラクシュミー。


サラスヴァティー


熱狂な崇拝を受けるラクシュミーを横目に見ながら、

ヴィーナーを弾いているのは、芸術、知能の女神、サラスヴァティー。

スタンダードなサラスヴァティーの肖像画

「みんなラクシュミーばっかり崇拝してさ、ボロロ~ン」と、

独りさみしくヴィーナーを弾いているのかと思いきや、余裕の笑顔。なぜ?



サラスヴァティーの特徴は、まず、真っ白な服。ヴィーナー。

左手に持っているのは、ヴェーダの文献。全ての知識の象徴。

右手に持っているのは、スパティカ(クリスタル)のマーラー(数珠)。

クリスタルクリアーな知能、数珠はジャパ(マントラを唱え続ける修行)をあらわしています。

彼女もパドマに座っています。乗り物は白鳥。

白鳥は、真偽を見分ける力(ヴィヴェーカ)の象徴です。

音楽を習う人はもちろん、全ての形の芸術と学問に関わる人々から崇められています。

右足が出てるでしょ。
ところで、サラスヴァティーの余裕の微笑みの理由は何だったのでしょうか。


人間、どんなに物質的な富に恵まれていたとしても、

知能が無ければ、豊かさの価値を理解出来ません。

猫に小判どころか、財産のせいで身を滅ぼしてしまいます。

どんなにお金を積んでも、サラスヴァティーのグレースが無ければ、

本一冊、一遍の詩すら、理解し、鑑賞し、味わうことは出来ません。

感謝できる心が無ければ、どれだけの富と名声、人間に囲まれていても孤独です。


「カギを握っているのは、結局私なのよ!ボロ~ン」






2014年12月16日火曜日

インドの智慧を、混迷する日本社会でどう生かし、どう生きるべきか?

解決策は「giving」を自分の価値観の上に置くことです。
かなり根本的な発想の大逆転ですが。

目の前の人が助けを必要としている時に、「誰がやるの?」「誰が費用持つの?」と周りを見渡すのではなく、自分が進み出るのです。
「こんな人助けを続けてると、時間も労力も貯金もすぐに底をついちゃうよ!」と心配になりますが、正しい事をやり続けていると、時間と労力は湧き出てくるようになり、理解や後押しをしてくれる人もどんどん現れます。

インドは「giving」という価値がまだ生きています。私の恩師プージャ・スワミジは、インド全国で大勢の人々に教育や医療を提供する施設を作っています。

私もリシケシで「giving」に触れ、教科書や教材、食べ物等、そして教育の機会を与え続けています。

インドならではの体験「バンダーラ」
サドゥーやヴェーダを勉強する生徒たちに食事とダクシナ(お金)を捧げるという伝統です。
人生観ががらりと変わります。

まだほんの5,6年ですが、私が編集・印刷に関わった文献は数え切れないほどになりました。著書も10冊近くになり、世界中で使ってもらっています。大量印刷のスポンサーをしてくれる人も出てきて数千冊をアシュラムに寄付出来ました。これからもどんどん与え続けたいです。

与える立場に立つ為に大金持ちになる必要はありません。2ルピーしか持っていない乞食でも、となりの乞食に1ルピーを与える心の大きさを持てるのです。まず、小さなことから、自分の周りから始める。
優しさや心の余裕さえも、最初は持てなかったとしても、与えているうちに生まれてくるものです。
「giving」は今までの幸福基準に、新しい次元を開拓してくれます。



= 伝統から「ダルマ」という幸福価値を学び、実践する = 

日本は20世紀に文化も何もかなぐり捨てて資本主義社会に順応して、「より多くの生産と購買消費=より幸福」という価値観だけになってしまいました。

これはアメリカの価値観です。

ヴェーダーンタ用語でいうと、アルタ(security)とカーマ(desire)のみで、ダルマ(ethic, 道徳価値)が欠けているのです。

インドは文化財産が強すぎて、資本・競争社会への順応に時間がかかっているので、イラついた西側社会が「社会問題」とレッテルを貼っているのです。

日本だけでなく、世界全体で貨幣・物質的富の極化はより進められ、大多数はメディアに流されるがままに搾取され続けるでしょう。
メディアに流されるとは、正しい情報と考え方を得る努力をしていない、ということです。
発達した脳みそは、人間に与えられた特権です。思考力という特権を正しく使えた人は、人間として本当に豊かな人です。

政治と経済が私たちに与えてくれるのは、それぞれ、アルタ(security)とカーマ(desire)だけです。
それさえも、完全なレベルでは無理です。
どの程度のアルタを政府に保証してもらおうとしているのか、どの程度のアルタは政府に頼らずに自分で確保するべきか。
経済が与えてくれるカーマに、どの程度頼るべきか。

自分の幸福の基準にアルタとカーマの2次元しかなければ、政治と経済の在り方に振り回されます。
「ダルマ」という幸福価値を伝統から学び、実践しながら深めていくとき、人間としての本当の豊かさがあるのです。





  ----------------------

以上は、Facebookからの質問に対しての私からの回答でした。
多くの人にも届けたいと思ったのでシェアします。

ちなみに、質問は:

経済至上主義に左右されることなく豊かで文化的な生活を人類が差別なく生活することができる社会のために私たちは何をするべきなのでしょうか。
どう生きることが平和な世界にと繋がることができるのでしょうか。





関連記事:

知られざるインドの事情

カースト制度について


2014年12月13日土曜日

カースト制度について

インドやヨガに興味のある人には必ず知ってもらいたい事実 -


学校の社会科の勉強では、インドといえばヒンズー教、ヒンズー教といえばカースト制度、と習いました。
カースト制度と聞くと、「宗教が背景の悪習慣」というイメージがありますが、そのイメージはどこから来たのでしょうか。
今回は、このカースト制度について、しっかり学んで見ましょう。


歴史上どの時代や地域でも、だいたい社会構造のベースは世襲分業制であるように、
ヒンドゥー文化社会は世襲分業制がベースなっていました。

それを、カースト制度という悪名高き社会問題に発展させたのは、植民地支配者の作為的な政治とメディアです。

いろんな部署があり、統制がとれて皆が繁栄している会社があったとします。
その会社を潰す為に、それぞれの部署員が互いに憎みあうように入れ知恵したのがイギリスです。

自分たちの宗教や職業にコンプレックスを持たせ、社会分裂を起こし、社会構造を弱体化させる事を目的に、イギリスをはじめとするヨーロッパからの宣教師らがインド人を教育し始め、それが今でも続いているのです。



ちなみに、ヴェーダは、「人間は与えられた義務を果たしながら社会に貢献することによって、人間として成長出来る」と教えています。

どの職業に就くか、という職業ステータスなどは問題ではなく、どれだけちゃんと自分の責任が果たせられるか、が問題なのです。


「じゃあ、自分の義務を果たして社会の貢献者になって、人間として、本当の大人として成長するぞ!」と決めたら、「でも、私の義務、天職って何よ?」という問題にぶつかります。

「義務」の定義は、「その時その場所でその人に与えられた、やるべきこと」です。
この定義だと、社会や家族の責任はもちろん、通りがかりの人を助けるのも義務になります。

定職に関しては、自分の家族のしている職業を手伝う、引き継ぐのが自然であり、標準となっています。家業でなくても、社会から期待されている役割、自分に回って来た役割が、自分の運命、自分の役割です。
わざわざ自分の天職探しに時間と労力を費やすような無駄が省けて、その分自分の仕事と社会貢献に専念できます。

学歴や勤め先、職種にステータスの上下をつけて、就労者同士でも競争させて、「外資系の大企業」が勝ち組で、「地元の小さな家業」が負け組、という構図は、資本主義に都合の良い構図です。

資本主義により、「自由競争」が推奨され、労働者達を「自由」に競争させて、あたかも「自由に職業を選んでいる」と思い込ませて搾取する仕組みが、経済発展国の社会構造です。

社会貢献や人間としての成長よりも、競争に勝つことが優先されているが故の、経済発展国なのですから、国民が生きていることに虚無感を感じるのは当然ですね。





関連記事:

インドの智慧を、混迷する日本社会でどう生かし、どう生きるべきか?

知られざるインドの事情



2014年12月12日金曜日

知られざるインドの事情

現代インドの「改宗」宗教戦争


インドではここ何世紀か、クリスチャンやムスリムによる、強制的・暴力的・非道徳的な改宗戦争が行われています。

ヒンドゥーの村から子供を誘拐して殺害し、村人全員がクリスチャンやムスリムに改宗しなければ更に子供を殺す、という脅しをして、村全体を改宗させる、というのがよくある手口だそうです。

イスラムの男子は、ヒンドゥーの女子と結婚をすると報奨金がもらえるのだそう。(インドすぎる。。。)

慈善事業は改宗が目的


ソニア・ガンディやマザーテレサ(残念ですが)の影響で政治や寄付を通して得た莫大な資金は、改宗活動に充てられています。
(マザーテレサは集まった莫大な寄付金はヴァチカンの改宗活動資金に回し、彼女の病院に収容されている病人達は、貧しく苦しみ続けることを善しとしていたそうです。)

「無宗教」を掲げた政府が、ヒンドゥーの寺院の寄付や賽銭を全て徴収し、それを「少数派」であるクリスチャンやムスリムの宗教活動(メッカへの巡礼費用はインド政府持ち、など)、改宗活動に充てているのです。

メディアぐるみの改宗戦争


世界でもインド国内においても、メディアはクリスチャンやムスリムよりです。

毎年何万人という単位でヒンドゥーからクリスチャン・ムスリムへの大量強制改宗が行われていることはメジャーなメディアでは報道されていません。

しかし、改宗後に「やっぱりヒンドゥーの方が良かった、、」と、数十人や数百人が再改宗をすると、メディアがこぞって「大量改宗!」と騒ぎ立てています。

最近そういう事がニュースになっているのを見たので、インドの現状をシェアしました。

インドをインドたらしめているヒンドゥーの文化は、「経済発展国」になるのと引き換えに、作為的に急速に破壊されています。

全人類の財産と呼ばれるにふさわしい、インドの伝統の智恵が後世に伝えられますように。



関連記事:

インドの智慧を、混迷する日本社会でどう生かし、どう生きるべきか?

カースト制度について

2014年10月2日木曜日

ヒンドゥー教の聖典:その1―ヴェーダの概要

ヒンドゥー教において、聖典と呼ばれるものには沢山ありますが、

まず、最初に数えられるべきは、ヴェーダです。

ヴェーダ以外の聖典は、ヴェーダに基づいているからです。

ヴェーダで教えられている真理、それを理解するための価値観や生活規範に沿った

生き方のことを、一般的にヒンドゥー教と呼ぶのです。

サーマ・ヴェーダを勉強する為に親元を離れて、先生の元で生活をしている学生達。
ヴェーダの勉強をするには、毎日24時間、生活の規則を守る必要がある。
ちなみに私は、この子供たちにサンスクリットを教えています。
伝統的なヴェーダの歴史の中で、初めての外国人女性講師だと思われます。

ヴェーダで教えられいる内容は、ある特定の時代や場所、

人種に限られたものではありません。

普遍の摂理、そしてそれを支える永遠というものについて教えているので、

宇宙の何処の場所でも、前回のビッグバンの創造の中でも、

今回分の宇宙が全部ブラックホール化して、また次回のビッグバンの後の創造の中でも、

繰り返し、同じヴェーダの内容が教えられるのです。

このことから、ヴェーダの教えられている、この世界、この宇宙の在り方を、

「サナータナ(永遠の)・ダルマ(秩序)」と呼びます。

ヒンドゥーとは、後に、サナータナ・ダルマに基づいて生きている人達を総称した、

外国人によって付けられた名前です。

ちなみに、インドという国名も、外国人による名称です。

インド人たちは自分の国を、「バーラタ」と呼びます。

ラーマーヤナに出てくる、ラーマ王に替わって献身的に国を治めた、

ラーマの弟「バラタ」から由来しています。


先述のように、ヴェーダで教えられている内容は、

「サナータナ(永遠の)・ダルマ(秩序)」であるゆえに、

”ヴェーダは紀元XX年にXXによって作られた”とは言えません。

万有引力の法則は、ニュートンによって17世紀に発見されました。

しかし、17世紀以前にも、引力の法則は存在していました。

普遍である法則は、「発明」ではなく、「発見」されるのです。

日本語では、「見る」という字が発見という言葉の中に使われていますが、

サンスクリット語では、ヴェーダは「シュルティ(聞かれたもの)」と呼ばれています。

研究に没頭することによって研ぎ澄まされた科学者の精神が、

凡人が見過ごしてきた、そこにある事実を発見出来るように、

祈りと規律的生活に専念し続けた聖者が、ヴェーダのマントラを発見したのです。


考え中


英語で発見は「discover」と言います。既に存在している知識が、

無知や間違った考え、物の見方によって、cover されているのです。

それを取り除くのがdiscoverです。


ヒンドゥー教の聖典:その2―4つのヴェーダ は次回にします。



関連記事:

4つの人生のステージ(アーシュラマ)

カースト制度について

多神教?一神教?無神教?

2014年9月10日水曜日

ランゴーリ

ランゴーリ(Rangoli)は、コーラム(Kolam)とも呼ばれる、

インドの家庭や、テンプルの入り口などに見られる綺麗な幾何学模様。

私の住んでいるアシュラム内にある、立派なダクシナームールティ・テンプルの入り口に、毎朝描かれる幾何学模様。

インド全国で見られますが、特に南インド、さらに特にはタミル・ナードゥ州でよく見られます。


伝統的には、既婚女性が、毎朝家の入り口を水で掃除して、

牛の糞(消毒作用がある)を薄く塗り、その上に、お米の粉でランゴリを描きます。



もちろん下書きも何もありません。

最初に点々をポチポチと等間隔に置きます。



そして一気に、一筆書きのように描いていくのです。

こんな複雑な幾何学模様が、何百種類も彼女達の頭の中にあるのです。

それが、サササっと、鮮やかに、見ている間に颯爽と速く描き出されるのです。

それはまさに、神業。




いちおう、基本的なパターンと言うものがありまして、

それをどんどん複雑化していくのですね。



こちらにいろいろ有ります。お楽しみあれ。


なぜ、毎朝ランゴーリ(コーラム)を家の前に描く習慣があるのか?

いろいろある諸説をまとめてみました。

  • ラクシュミー(富の女神)を呼び入れるため。


  • ランゴーリが描かれていない家には、ジェーシュター(ラクシュミーの姉)と呼ばれるで、貧乏神が家に入ってくるのだそう。


  • ランゴーリは、サンニャーシーなど、ビクシャー(食事をもらいに来る人達)に対しての、Weocome!のサイン。


  • 逆に、ランゴーリが描かれていない家には、ビクシャーをもらいに行けない。


  • 家庭内で、出産があった場合、家族が亡くなった場合などは、一定期間、ビクシャーを与える為の来客を拒まなければいけないので、ランゴーリは描かない。


  • ランゴーリに使う米粉は、アリさんたちの餌になる。これが、家庭人の毎日の義務である「パンチャ・マハー・ヤグニャ(5つの重大儀式)」のひとつ、「ブータ・ヤグニャ(動植物に対する義務)」を果たしている事になる。


などの諸説があります。

ランゴーリにディーパ(オイルランプ)を組み合わせて、素敵な夜の演出。





関連記事:

ガネーシャ

4つの人生のステージ(アーシュラマ)

カースト制度について

多神教?一神教?無神教?



2014年8月30日土曜日

ヒンドゥーの変わった容姿をした神々に対する、よくある質問:「本当にこんな姿をした神様がいるの?」

ヒンドゥーの神々は、腕が何本もあったり、動物の顔をしていたり、

ちょっと現実離れした姿で、極彩色に個性豊かに描かれています。

左から、ラクシュミー(富の女神)、ドゥルガー(創造・破壊の力)、サラスヴァティー(智恵・学問の女神)。
それぞれの手に、象徴的なアイテムを持っている。


良くある質問は:

「こんな姿をした生き物が、本当にそこなへんをウロウロしているのか?」

こんな感じで?

「こんな形をした神様の存在は信じられないんだけと、どうやって受け止めたらいいのか?」

答えはずばり:

これらのフォーム(形)は、「ウパーシャ」と呼ばれる、

私達が全体と関係を持てるための助けとなる為に用意されたフォームなのです。

別に、それらのフォームを持っている個人が、どこかでウロウロしている必要はありません。

「神様を見てみたい!」という気持ちから、特定のフォームを見つけることが

目的になっている人達は沢山いますが、

この世界で見出したいのは、特定のフォームそのものではなく、

そのフォームが言い表さんとしている、普遍的な摂理、

自分の中にも外にも遍在する、物理や心理学の法則を認識出来るように、

それぞれの特定のフォームを頭に思い浮かべるように、文献の中で処方されているのです。


例えば:

障害物を司る神様、ガネーシャに祈ろう!と思い立った時、、、

この世界には「障害物全般」という、因果関係という法則に基づいて展開される、

概念とか摂理というものがあります。

自分個人に降りかかる障害物を取り除く為に、

「障害物全般」という摂理に働きかける行動として、祈りをするわけです。

なにかを祈るときに、「全般という摂理」を頭の中で想像する事を、

「ウパーサナ」といいます。

では、障害物全般と言う摂理を、イメージしてみよう!

とは言っても、、、何を考えていいのかいまいちピンと来ません。

そんな私達の為に、ヒンドゥーの文化では、

「これこれこういう形の像を想像すればよい。」と、

マントラやシュローカといった祈りを伝える文献の中で教えてくれているのです。

人気のガネーシャの容姿も、プラーナや、ガネーシャストートラムといった文献で

細かく伝えられています。

それを基にして、今私達が見ているガネーシャの姿が描かれているのです。

日本でも人気のガネーシャ君。
वक्रतुण्ड महाकाय सूर्यकोटिसमप्रभ ।
निर्विघ्नं कुरु मे देव सर्वकार्येषु सर्वदा ॥
vakratuṇḍa mahākāya sūryakoṭisamaprabha |
nirvighnaṃ kuru me deva sarvakāryeṣu sarvadā ||

वक्रतुण्ड [vakratuṇḍa] - 曲がった鼻を持った
महाकाय [mahākāya] - とても大きな体をした
सूर्यकोटिसमप्रभ [sūryakoṭisamaprabha] - 何億もの太陽の光を放つ
देव [deva] - デーヴァよ!
सर्वकार्येषु सर्वदा [sarvakāryeṣu sarvadā] - 全ての行いにおいて、常に、
निर्विघ्नं कुरु मे [nirvighnaṃ kuru me] - 私の為に障害物を取り除いてください。

このようなプレーヤー(祈り)の中で、ガネーシャの姿形が描かれています。

その姿形をイメージする事によって、「全ての障害物における摂理」という、

宇宙規模の「全体」と関わり、働きかけることが出来るのです。

この「祈る個人」が「宇宙全体」に働きかけるという行為が、

「個人」と「全体」との関わりの認識を助け、さらに

「個人」と「全体」は、同一である事を理解出来る準備をしてくれるのです。


他の神々も同様です。

ラクシュミーやサラスヴァティー、ヴィシュヌやシヴァなどの神々の

姿形や持ち物、乗り物、特徴などを描いたプレーヤー(祈り)の句は沢山あります。

これから機会を見つけて、どんどん紹介していきますね。


宇宙の摂理は1つという単位にまとめられますが、

富、知識、パワー、創造、維持、破壊、、、といったそれぞれの視点で、

それぞれの形が、ウパーサナの為に文献で教えられているのです。


左から、破壊の象徴シヴァ神、維持継続の象徴ヴィシュヌ神、創造の象徴はブランマ神。
全ては1つだけれども、卵と雛、成鳥のように、視点を変えれば形も変わる。

「宇宙全体の1つの摂理と、自分とは一体である」という事実を、

常に明らかに観続けられる助けとして、ヒンドゥーの文化があるのです。





関連記事:

4つの人生のステージ(アーシュラマ)

カースト制度について

多神教?一神教?無神教?

2014年8月28日木曜日

ガネーシャのお祭り ガネーシャ・チャトルティ

ガネーシャのお誕生日。


家族揃って。

ガネーシャ・チャトルティ、別名ヴィナーヤカ・チャトルティ。

ガネーシャの別名がヴィナーヤカ(リーダー)だからですね。

ヒンドゥーの暦で、バードラパダという月(通常8月)の、

新月から数えて4日目が、ガネーシャ・チャトルティです。

チャトルティとは、月齢4日目の日を指す言葉です。

2014年は8月29日にあたります。


この日はインド全国で、様々な形で祝われています。

一番盛大に祝うのは、ガネーシャ信仰の強い、マハーラーシュトラ州です。

土でガネーシャの像を作り、10日間プージャーをして、

10日目に、その像を、海や川に流してしまう(ヴィサルジャナ)のです。

プージャーがされる祭壇から、ヴィサルジャナが行われる水辺までは、

日本のお神輿の行列と同様に、ガネーシャの像を神輿にして担いで、

皆で揃って掛け声を掛けながら町中を練り歩きます。


ガネーシャ・チャトルティの起源


このお祭りがインド全国に浸透した仕掛け人は、ガンガーダル・ティラックという人。

フリーダム・ファイターと呼ばれる、インドの独立運動家。

英国やクリスチャンの陰謀で、政略的に弱体されたヒンドゥー文化を、

人々の中で復興させるために、このガネーシャ・チャトルティを全国に広めたのです。


ボンベイでは10日かけて盛大に行われます。

日本でも、ガネーシャのシュローカなどを唱えながら、

障害物の無い、家庭や事業の繁栄や、人生の成功を祈ります。

ガネーシャーヤ ナマハ




関連記事:

ティラカム 額につける色々

多神教?一神教?無神教?

知られざるインドの事情

ヒンドゥーの変わった容姿をした神々に対する、よくある質問:「本当にこんな姿をした神様がいるの?」

>> トップ目次へ >>

2014年8月1日金曜日

アーユルヴェーダ体験記 その3―いよいよトリートメント(処置)

お薬を飲み始るように言われたのが日曜日。

その5日後の金曜日から、オイルを体中に塗りこむマッサージ、

「アビアンガ」が始まりました。


まずはドクターに会って、少しだけコンサルテーション。

お薬の効果を聞かれる。むくみは少し良くなったか?

良くなったような気もするけど、相変わらずむくんでます。

ストレッチをしたり、ふくらはぎを暖めたりマッサージしたりすれば、

目に見えて効果が出るのだけれども、面倒くさがりなもんで、ちゃんとケアしていません。。

お薬でむくまない体質に改善出来れば嬉しいのですが。

どろどろに煮出した(苦~い)液体タイプのお薬を「カシャーヤ」と呼びます。

お薬を飲むのが辛い、とこぼしたら、同じ薬でタブレットタイプのもあるとのこと。

でもやっぱり、タブレットよりも本来のカシャーヤが一番効きが良いのだそう。

我慢するか。。


アビアンガをする処置室はすべておニューで快適。

マッサージ台は、一本の木をくりぬいて作ったものだそう。

オイルは、甘辛~いにおいのする、いかにもアーユルヴェーダって感じの赤茶色のオイル。

あとで領収書を見たら、3種類のオイルを、私にあわせて調合してくれていたようだ。

(ダンワンタラム Dhanwantaram oil, サハチャラディ Sahacharadi oil, and アサナ・ヴィルワディAsana Vilwadi oil)

アーユルヴェーダのオイルの製作法の説明を見つけました。

とても手が込んでいるんですね。


マッサージしてくれるのは、若い女性の2人。

ちなみに、女性は女性が、男性は男性がマッサージするものです。

服を脱いで、使い捨ての簡易ふんどし?を履いて、

頭のてっぺんにオイルをちょこんをのせられて、

まずはみんなでお祈り。ヴィシュヌの1つのフォームである、

ダンヴァンタリという薬学の神様の像が処置室には飾ってあります。

そこに向かって皆で手を合わせて、シュローカを唱える。

サンスクリット語の先生をしている私にとっては、

ちょっと発音矯正をしたくなるような、かなりタミル語訛りのプレーヤー(祈り)。


नमानि धन्वन्तरिमादिदेवं सुरासुरैर्वन्दितपादपद्मम् ।
लोके जरारुग्भयमृत्युनाशं दातारमीशं विविधौषधीनाम् ॥

namāni dhanvantarimādidevaṃ surāsurairvanditapādapadmam |
loke jarārugbhayamṛtyunāśaṃ dātāramīśaṃ vividhauṣadhīnām ||

I salute (नमानि) to Danvantarin (धन्वन्तरिम्) (one form of Vishnu),
who is the first Deva (आदिदेवम्),
whose lotus feet is saluted (वन्दितपादपद्मम्) by all the gods and daemons (सुरासुरैः),
the destroyer (नाशम्) of old age (जरा), disease (रुग्), fear (भय), and death (मृत्यु) in the world (लोके),
the giver (दातारम्) and the lord (ईशम्) of various medicinal herbs (विविधौषधीनाम्).


そして、2人がかりでマッサージ。

リラックス♪って感じではありません。

結構パワフルな感じで、台からすべり落ちないように踏ん張ってしまう。

押される力に対抗する力が入ってしまうのだけれど、それで筋肉が鍛えられそう。

リンパの流れに沿って2人で対照的にせっせと1時間マッサージをしてくれる。

マッサージの体勢は7つのポーズで、座ったり、仰向けになったり、横になったり。


マッサージが終わったら、緑豆の粉でお風呂に入れてくれる。

余分なマッサージ油を落としつつ、皮膚表面にマッサージ油を残す、自然の方法です。

でも、頭皮や髪の毛にはちょっと、、、

やっぱり日本の湯船のお風呂が一番です。

もう、日本のお風呂に2年以上も入っていない。。。

>> トップ目次へ >>

2014年7月27日日曜日

ティラカム 額につける色々

ティラカムとは


インド人と言えば、

こんな感じですよね。


おでこ(額)に、ティラカム(tilakam)、もしくはビンドゥ(bindu)と呼ばれる、

ドット(点)をつけています。

これにはどういう意味があるのでしょうか?


ヒンドゥーの世界観


ここにあるもの全てが「神」である。

ヒンドゥーの文化の全ては、個人がこのことを理解する為に終結しています。

全てが神であるのなら、私の体も心も、神の表現であるはず。

ウパニシャッドは「それ(ブランマン、神)は意識である」と教えています。

意識とは?今ここに居る私に他なりません。

私自身がその神であるなら、この身体はテンプル(寺院)である。

この理解から、「アートマー(自身の)プージャー(儀礼)」をする習慣があります。

ヒンドゥーは、朝夕2回必ず、沐浴で体を清めて、マントラで心を清めて、

ここに在る全ては神であると認識し感謝するプージャーをし、

その一環として「アートマプージャー」をするのです。

自分の意識そのものが神であり、神の宿る心や体をテンプル(寺院)として認識し、

自分自身に聖なる捧げ物、クムクマなどを捧げるのです。


ティラカムの種類


ティラカムには様々な素材と色があります。

最近は工業化、ファッション化が進んで、お肌に悪い合成顔料や、シールタイプのものが多く出回っています。

本物志向では、伝統で決まっている天然の素材を、

伝統的な方法でマントラを唱えながら製造され、寺院に奉納され、

祈祷がされてから返って来た物、つまり「プラサーダム」を使いたいものです。


赤色=クムクマ サフロン等から製造される。女性、シャクティを表す。

白色=ヴィブーティ 牛の糞を燃やしたもの。ヴァイラーギャ、清さを表す。

薄茶色=チャンダナ サンダルウッドペースト 高潔さ、スピリチュアリティーを表す。

黄色=ターメリック ウコン 


私は、インド全国からのプラサーダムを色々いただくので、

それらをガンガーの水で溶いて使っています。





関連記事

米粉で描く幾何学美術 ランゴーリ



目次へ戻る>>

アーユルヴェーダ体験記 その2―お薬

実際にトリートメントが始まるのは金曜日だけど、

5日前の日曜日の今日から、お薬は始めるとのこと。

茶色の濃い~液体の「punarnavadi」と呼ばれる飲み薬は、

「ちょっと苦いよ」と言われたけど、めっちゃ苦い。

10mlを40mlのぬるま湯で薄めて飲む、という指導だったけど、

あまりに苦くて、飲んだ後、最低200mlの水を飲み下さないと、

やってられない。

それっていいのかな?

朝と夜の2回、食事の2時間前に服用、とのことなので、

朝は大丈夫だけど、夜は夕方にちょこちょこフルーツなどを間食をするくせがあったので、

それを止めないといけないから、丁度よいか、と思っています。


2014年7月26日土曜日

アーユルヴェーダ体験記 その1―診察

アーユルヴェーダとは、インドに伝統的に教えられている、

健康の維持促進と、長寿を目指す方法です。

最後に「ヴェーダ」と付くので、4つのヴェーダのうちの一つか?とよく訊かれますが、

答えはNoです。知識の単位として、ヴェーダと言う言葉が使われているだけです。


      -----    -----    -----    -----    -----


毎日忙しくて、体のことなんてかまってられないまま、

インドに来てからもう8年も経つのに、私は今まで、

アーユルヴェーダのトリートメントをちゃんと受けた事がありませんでした。

来週から2週間のお休みがあるので、それを利用して、

アシュラムの近くに最近設立された、アーシュルヴェーダの治療所に通う事にしました。


アシュラムからは、バスで5分ほどですが、バスが運よくすぐに来るかは誰にも分かりません。。

一応ドクターにコンサルテーションのアポを取ってから施設に向かいました。

ドクターを待っている間、ドクターの奥さんが、施設の中を見せて回ってくれました。


ここは、AVP系列のアーユルヴェーダ施設なので、

使われる薬は全て、AVPのものです。

もともとは、AIMforSEVAの病院だったのが、

最近になってアーユルヴェーダの施設にコンヴァートされました。

建物の建て替え工事は、まだ2割ほどしか完了していません。


ドクターは大柄で若くて元気そうな人。

脈を診たり、舌をみたり、簡単な質問をして、だいたいのプランと、お薬を決めてくれました。

14日間というのは、トリートメントをするのにとてもよい時間の単位だそうです。

13日間でも15日間でもだめらしい。

まず最初に3回くらい、アビアンガ(オイルマッサージ)をして、

その反応を見てから、次に何をするか決めるということで、

最初から14日分のプランを立てるわけではないとのことです。

ちなみに、私は健康そのもので、何もコンプレインはありません。

ドクターの質問に対する答えも、恥ずかしいくらいに健康そのもの。。

強いて言うなら、もともと体がむくみやすいことと、

1日中、教えているか、勉強しているか、コンピューターで書き物をしているかなので、

さらにむくみ易い生活をしていることでしょうか。


トリートメントは来週からだけど、お薬は明日から始める事になっています。

今日は土曜日なので、何かを始めるにはあまり良くないので、日曜日にお薬はスタート。

トリートメントを始める日は金曜日。日曜日も金曜日も、吉兆な日です。

インドはこういう暦を気にする人が今でも多いです。私もその一人です。

またゆっくり、インドの暦の説明をしますね。

処方してもらったお薬は、Punarnavadiという飲み薬でした。

punar = 再度 navadi = 新しくなる?

むくみに効くそうです。


では、また新しいアップデートをお楽しみに。








2014年7月5日土曜日

客観的に正しく考える事を推奨し、考える人によってのみ理解可能なのがヒンドゥー教

盲目的な信仰心は思考を停止させてしまう


一般的に「宗教」というと、信仰心に頼った考えを指します。

世界中で広く信仰されている宗教はもちろん、どんな宗教でも大抵は、

「私達の神のみが神であり、他の神は神ではない」と教義として教えています。


「なんでそんな事が言えるのですか?」という疑問を持つのは、

考える生き物である人間として当たり前でしょう。


しかし、教えを広める人達に対して、そんな質問をしてしまったら、

「お前は信仰心の無い奴だ」と言われて、悪魔扱いされたり、村八分になったり、

暴力的な宗教では自分や家族が殺されたりしてしまいます。


だから、考えるのを止めて、飲み込んでしまうしかありません。

宗教以外に関しては、きちんと考えられる能力を持っている人でも、

宗教に関しては、局部麻酔にでもかけられたみたいに、

考えがストップしている人達が世界の大多数を占めています。

なぜかと言うと、宗教と言うものは往々にして、

考える事を止めて飲み込むしかないような教義を立てているからです。


人間の知性は使うために与えられている


人間は考える能力を与えられているがゆえに、人間と呼ばれるに値するのです。

考える事を禁止するような宗教や団体は、人間を非人間に陥れているようなものです。


私達人間の脳みそは、考えるために与えられているはずです。

私達が持っている、限られた一生の時間は、考える為に与えられているはずです。


正しく考えることを推奨する唯一の宗教、ヒンドゥー


ヒンドゥーの文化の根源である、聖典「ヴェーダ」の最終的な教えは、

客観的に正しく考える事の出来る人によってのみ、理解出来るようになっています。


最終的な教えに辿り着くまでの人生は、心の成熟を得る為にあります。

人間としての心の成熟とは、すなわち、感情に左右されずに、

常に客観的に正しく考えられる、という事です。


ヴェーダの教える生き方


聖典「ヴェーダ」は、最終の教えに至るまでの、

成長を得る為の人生の生き方を事細かに教えています。

この教えに沿った生き方が、人生の全ての側面において、

客観性と平穏を持った心を育ててくれるのです。

インドの「ヒンドゥー教」と呼ばれる生活のあり方は、

このヴェーダの教える生き方がベースとなっています。


ヒンドゥー教の聖典「ヴェーダ」


そしてそれをサポートする膨大な文献が教える儀式や生活様式、逸話などは、

「なんで?」「どうして?」と考えされられるようなものばかりです。

それらの文献は、私達に「なんで?」「どうして?」と考えさせているのです。

そして、それらの文献は、全ての疑問にきちんと答えを用意しています。

答えがどの程度理解出来るかは人それぞれなので、

それぞれの人の思考能力にあわせて、それぞれの答えを用意しています。


一見理解の困難な、儀式や決まり事の多い、極彩色の文化を有するヒンドゥー教ですが、

それらを通して常に、私達に対して客観的に正しく考える事を推奨しているのです。


でも、どんな人だって、どんな時でも、起きている時間は大抵考えています。

考えすぎなくらい、考えています。常に考えっぱなしです。

しかし、その考え方は、主観的で、間違っているのです。

それゆえに、人生と言うものは問題ばかりなのです。

人間の不幸と言うものは、突き詰めると結局、主観的で間違った考えに起因しているのです。


では、何が客観的な考えで、何が正しい考え方なのでしょうか?

人生とは、それらを知るためにあるのです。

客観的で正しい考えを身に着ける為の人生の生き方が、

ヴェーダやその他の聖典で教えられている生き方なのです。


なぜ?どうして?を推奨し、考えさせ、答を与えるのが、ヒンドゥー教


ヒンドゥーの文化で教えられている「神様」には、

様々なフォーム(形)があり、様々な逸話があります。

それらは全て「なぜ?」「これ何?」「どうして?」「どう理解すべき?」

と疑問を起こすものばかりです。

シヴァ神のフォーム(形)のひとつ、先生の形をしているダクシナームルティ。
火、月、イヤリング、、、一つ一つのフォームは意味があります。
これらを正しく理解するのには、伝統に沿った正しい教えと、客観的な考えが必要です。

それらの疑問には全て、文献によって答えが与えられています。

そして、それらの答え全ては、

「神様とは、この世界、自分も含めたこの宇宙全体であり、

この変わり行く宇宙に存在を与えている、限界の無い唯一の存在である。

そしてそれは意識的な存在、つまり私である。」

という、最後の答えに辿り着くように出来ています。


この答えを、本当の意味で理解するには、相当の客観性を要します。

この本当の意味を理解する事の、その意味を理解するだけでも、

相当の客観性を要します。



少し難しくなって来たかも知れません。

話を元の筋に戻しましょう。


盲目的信仰心の危険性


「私達の神のみが神であり、他の神は神ではない」といった教えは、

客観的な正しい理解を必要としません。

ただただ、盲目的に信じるしかありません。

理屈に合わない事を、盲目的に信じ込ませるという行為は、

考える能力を禁止し、否定する、非人間的な行為です。


考える能力を使って、客観的に正しく考えて見ましょう。

この世の全てを神とするなら、「他の神」と呼ぶ事すら出来無いはずです。

もしくは、「他の神」も全て神であるべきです。


「私達の神のみが神であり、他の神は神ではない」を飲み込むには、

神以外の存在を認めるしかありません。

客観的に正しく考えて見ましょう。

彼らの言う、神以外の存在とは、他の神とか、悪魔とか、ちっぽけなあなたとかです。

そんな、神以外の存在を許すような神様は、限界のある神様です。

なぜなら、他の神とか、悪魔とか、ちっぽけなあなたとかを含んでいないからです。

そんな限りのある神様を、「全知全能」と呼ぶ事ができるでしょうか。

そこな辺の権力を持った人間の、もっとすごいヴァージョンが神様なのでしょうか?

そんな限りのある神様に、自分の幸せを託すのは、賢い事でしょうか?


全知全能とは?


どんなにちっぽけでも、あなたの知識は知識です。

あなたの能力は能力です。

どんなにちっぽけでも、あなたの体の全ての器官は、知識の塊です。

細胞がどのように働くか、循環器が、消化器がどのように働くかを観察してみてください。

すべては知識の表れです。

あなたの心の中で起きる事も、全て脳細胞の働きであり、それは知識の表れです。


そんなあなたが、神様から離れた存在なら、神様は「全知全能」と呼ばれるに値しません。


全てを、客観的に正しく考え、正しく理解した時、

この宇宙の全てが「全知全能」なのです。

それを「神」と呼ぶなら、

「私達の神のみが神であり、他の神は神ではない」などと言ったり、

他の神とか、悪魔とか、ちっぽけなあなたとかを、神と別の存在として教えたりすることは

出来無いはずです。



スケールが大きすぎて、正しく考えられないかも知れません。

この、絶対的に最大のスケールでの理解に必要な、

客観性を培うための生活規範が、ヒンドゥーの生き方なのです。


ヒンドゥー教とは、鵜呑みにするための信仰ではありません。

人間として、正しく考えられる人を造り、

その正しい考えを使って、人間として生まれて来た意味を理解させるのです。


客観的に正しく考えられる人間を造る生き方を教えるのが、ヒンドゥー教であり、

さらに、人間として生まれて来た意味を教えるのが、ヒンドゥー教なのです。


目次へ戻る>>

2014年4月5日土曜日

多神教?一神教?無神教?


「キリスト教は一神教」であるように、
「ヒンドゥー教は多神教」と判を押したように、よく説明されています。

みんな揃って集合写真



「一神教」「多神教」「無神教」といったコンセプトでは、ヒンドゥー教を把握することは出来ません。




まず最初に、これらのコンセプトの理解を試みてから、
それらと比較して、ヒンドゥー教の理解を試みてみましょう。


一神教とは;


キリスト教やイスラム教、ユダヤ教などの、いわゆる「一神教」と呼ばれる宗教では、
「神様」と呼ばれる特別な実体が、天国かどこかにいます。
分かり易く言えば、God@heaven.comといった感じです。

あなたと神様は別々の存在です。
神様は壮大で、あなたはちっぽけです。

あなたの死後に、永久に天国行きか、地獄行きかをジャッジする、
唯一の存在が「神様」です。
それは「信じる」しかありません。信仰心のみに頼っているのです。


多神教とは


先述の一神教の神様のコンセプトを、複数にしたのが多神教です。
権力者が独りから多数になっただけです。


アニミズムとは:



「多神教」に関して「アニミズム」という信仰があります。

自然の現象や生き物の中に、霊魂が宿ると考え、それを崇拝する宗教です。
一神教の信者は、多神教やアニミズムを、原始的で幼稚だと考え、
自分たちの一神教がより高度で洗練されていると信じています。


無神教とは;


「無神論」とも言う事が出来ます。
「神様」とかいうコンセプトがなくても、科学的な説明により、
世界や人生の目的などを理解することで十分満足出来るという考えです。


ヒンドゥー教とは:


ヒンドゥー教は、これらのうちのどれに当てはまるのでしょうか?

ヒンドゥー教の原典となる、ヴェーダは教えます。
सर्वं खल्विदं ब्रह्म
全てはブランマンである。
この世界、宇宙に在るもの一切を、ブランマンと称して定義しているのです。
ブランマンを神とするなら、ヴェーダのヴィジョンは、「神のみが存在する」のです。

「ひとつだけの神(とその他の神でないもの諸々)が存在する」のではなく、
「たくさんの神(とその他の神でないもの諸々)が存在する」のでもなく、
「全ては神だけど、いろんな神が存在する」のでもなく、
「存在しているのは神だけ」なのです。



2014年3月31日月曜日

このサイトの主旨

ナマステ、

インドのアシュラムに在住し、いわゆる「ヒンドゥー教」の根幹とされる、ヴェーダの勉強と伝承に携わっています。

現在の日本は、「何の為に生きているのか」、「どうやって生きていけばいいのか」、といった疑問を持っていても、それに対する答えが見つけられない状況にあります。

生きる意味を探している人、
身体を動かすだけのヨガ・アーサナでは物足りなく感じ、本当のヨガの意味を探している人、
インド哲学に興味がある人、
インドの文化、インド音楽、インドの言語などに興味がある人、
このような人達が最初にぶつかるのが、「ヒンドゥー教」という解かりづらいコンセプトの壁です。

なぜ解かりづらいのでしょうか。
それは、間違った情報が何世紀もかけて氾濫しているからです。大学やアシュラムなど、権威のある情報源そのものに、根本的な間違いが溢れているのです。それゆえに「ヒンドゥー教」は、外国人のみならず、インド人にさえ誤解され続けているのです。

「ヒンドゥー教」に関する間違った認識を、少しずつ解いて行く為に、このサイトにおいて、正しい知識を提供して行きます。


>> トップ目次へ >>