ヴェーダはマントラと呼ばれる文章から構成されます。文章は言葉から構成されます。言葉の一つ一つには意味があり、言葉が集まって文章として意味を成します。文章はその受け取り手に新しい知識をもたらします。ゆえにヴェーダは、言葉からなる知識の集合体なのです。サンスクリットの用語では「シャブダ(言葉という形の)プラマーナ(知る手段)」と言います。この定義はヴェーダの役割を知る上でとても大切です。
サンスクリット文法的にもヴェーダという言葉の語源は、「知る」という意味の動詞の原型「ヴィド」に「~する手段、道具」という意味の接尾語からなると説明出来ます。したがって「ヴェーダ」とは「それによって知ることが出来るもの」、つまり「知識を得る手段」という意味として理解されます。
ヴェーダが知る手段ということは分かりましたが、何について知る手段なのでしょうか。ヴェーダの扱う主題は「人間の幸福」です。人類の幸福の追求に貢献するのがヴェーダの役割です。
また、ヴェーダが教える知識は、私達の経験を通して得られる知識ではありません。それゆえに、ヴェーダは「知識を得る手段」として、五感やそれを基にした推論とは別に独立して数えられるのです。
ヴェーダは2つの部に分けて説明することが出来ます。
1.カルマ(行為)の部
ヴェーダのほぼ全体を占めるカルマの部では「このような行為をすれば、このような結果が生まれる」という知識が教えられています。人間が幸福を追求する為に、するべきこと、避けるべきことが教えられているのです。
カルマの部で教えられている知識は膨大です。尽きない人間の欲望を反映して、あらゆる人間のあらゆる願望を実現するための方法を教えているからです。これらのカルマが、本人の望むものに応じてするかしないかを選べるのに対して、その人の義務として教えられているカルマもあります。
義務としてのカルマは、人生の段階に応じて、その人が従うべき生活規範として教えられています。「学生期には、定められた生活様式を守りながら定められたヴェーダの勉強をしなさい」「学生期が終われば、先生にお礼を捧げてからすぐに結婚し、定められた生活儀式を守り、家族と社会に貢献をしながら成長しなさい」「子供を結婚させたら家を出て、瞑想と儀式をしなさい」「準備が出来たら全てを捨てて、ウパニシャッドの理解に専念しなさい」というように、その人が一生を通じての行動が義務付けられています。義務を遂行すること、つまり自分の好き勝手な面を犠牲にして、家族や社会に対して与える側に立つ機会を通して、その人の心は成長し、本当の意味で豊かになります。
さらに、ヴェーダが教える儀式や祈りの全ては、この宇宙の全ての場所と時間に共通する秩序、すなわち物理や生理といった法則が、自分と言う個人のどの面をとっても共通する秩序なのだ、と理解するためにあるのです。
自分は他から切り離された小さな個人という存在であり、それゆえに自分以外のものを欲したり、自分以外のものから恐怖を感じたりします。そして、欲求や不安に対処するために奔走しながら、一生という時間があっという間に過ぎるのです。これは、どんなに富と権力を持っている人でも、どんなに貧しい人でも、地球上に存在し行動する個人の全てに共通して言えることです。
人間の根本的な問題は、「私は、私以外の全てのものとは違う存在だ」という自己認識です。ヴェーダのカルマの部は、この個人の自己認識に変化を与えるのです。
ヴェーダの教える価値感や生活規範に基づいた人生は個人に、「私という個人性は全宇宙の現われに他ならず、私の中にも外にも、共通の秩序と言う寸分の狂いも無い確実な法則が偏在している」ということに気付かせてくれるのです。
2.ニャーナ(知識)の部
一方、ヴェーダの終わりにある「ウパニシャッド」または「ヴェーダーンタ」と呼ばれるごく小さな部分では、個人と全体の本質についての知識が教えられています。